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インターネットには自分で生産活動をせず他人の活動に対してケチをつけることで自我を保っているサイバー穀潰しみたいな人が一定割合でいるので、活動が多くの人の目に触れるとSNS等でネガコメがついたりする、それは活動の価値の高低や意義の有無とは関係がない、穀の知名度が上がれば自動的に沸く
最近、とてもおいしい和食を食べる機会があった。

その和食は、「すごく手間がかかっている」のではなく、ぱっと見には「あまり手間がかかっていない」ように見える。

しかし、ものすごくおいしいのだ。まず、良い素材が選ばれている。そして、それを処理したり、味付けする「加減」がじつに精妙なのだ。その「加減」の選択、「それでいい」という判断は、きわめて高度なセンスのもとにおこなわれている。

料理に限らず、音楽でも、映画でも、デザインでも、なんでもそうだと思うのだが、いいものというのは「やりすぎ」がない。いいものを作れる人というのは、「何をやるべきか」をわかっている以上に、「何をすべきでないか」をわかっている。

何かをしないという判断は、決して無知なのではなく、「それをすべきでない」という知恵・センスに裏打ちされていることが多い。「それをやると、台無しになる」ことがわかっているのだ。

いいものを作れる人、いわゆる「達人」は、すべきことだけをやり、すべきでないことはしない。その高度なセンスや判断力は、「手を加える」部分という以上に、「手を加えない」部分に発揮されている。
職場某市では午後三時頃になると「小学生が帰宅します。みんなで見守りましょう」という放送がかかる。それから数十分経つと、市のあんしんネットとかいうところから「不審者情報:帰宅中の小学生を見つめる事案が発生」というメールが保護者に配信される。愚の骨頂。
「ZIP」を観ていたら、犯罪学の教授が「不審者は見た目じゃわからないから『人間』に気をつけてもだめ。襲われやすい『場所』を避けること」といっていて、これはもっと強調するべきだと思いました。
al-grave:

"普通じゃない。

そう、誰だって、普通じゃないわ。
普通っていうのは、つまり平均でしょう?
平均したものは、シーソーの中心に来る。

だけど、そこには誰も乗っていない”

「赤緑黒白」森博嗣 (via keikei614)
 嫌いな人のことをいくら呪っても、その人は不幸になんてなりません。嫌いな人のことは、遠ざけてなるべく考えないようにするしかないですし、嫌いな人のことを忘れるためには、自分が楽しいことに熱中したり、好きな人と過ごす時間を増やしたり、自分の人生を良くするために時間を使うことが大事だと思います。自分の人生が大事になると、嫌いな人はいつのまにか、高速道路の料金所のようにすごいスピードで視界から消えていきます。どうか一度、その経験を味わってみてください。嫌いな人の存在感を、自分の中で軽くすること。それは相手が不幸になる以上に、心がすっきりすることですから。
人は感動したときに、心が緩む。
 そして、その緩んだ隙間にメッセージがスーッと染み渡る。
 つまり、「感動的なエピソード」と共に「伝えたいメッセージ」を伝えればいいのだ。私は自らの体験からそんなやり方を見つけた。
男と別れて東京でのOL生活に疲れて箱根で仲居をしてる友人は、明らかに女子大生とオッサンの不倫カップルの場合、旅を盛り上げる合いの手として「ご飯のおひつは奥様の方に置いておきますね」と一言告げて襖をしめながら「奥さまだって笑」と女子大生が必ず言うのを唯一の楽しみにしてるらしいです。